おっぱい先生は、カリスマカメラマンである。
おっぱい先生は、小さなおじいちゃんである。

おっぱい先生は、撮影時その小さな体が隠れるくらい大きな椅子に座ってうなだれている。(ように見える)

このじいさん、写真ほんまに撮れるのか?と初対面の人はたいがいそう思う。あるいは、椅子にくるまれ縮こまってじっとしてる姿は「生きてる?」とさえ問いかけたくなるのである。

しかし、生存確認は耳をすませばすぐにできる。

ときどき聞こえる吐息と聞き間違うくらいの「おっぱい」という声。
それは、唐突のようでもあり時間を正確に刻んだ間隔でもあるように「おっぱい」とつぶやくのである。
気の利いた初対面の者は、「え?なんか言いましたか?」と聞き返してしまうが、返事はない。そしてまた「おっぱい」と。

その間隔が小さくなり、「おっぱい」の声がマックスに達した時、彼に神が降りる。

縮こまっていた体は伸び、立ち上がり、まぶしいほどの英気が溢れ出し、シャッターを切りはじめる。

しかしその集中力は続かず、5分もすればまた椅子にうなだれ、ただの小さなじいさんに戻る。そしてまた吐息のような「おっぱい」が始める。周りは次の降臨を静かに待つしかない。

めんどくさいじいさんだが、その写真は生命力に満ち、そこにある瞬間のすべてを切り取ったえもいわれぬものが映し出されている。

これがカリスマカメラマン「おっぱい先生」である。
そして、私はおっぱい先生に救われたのである。

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意味わかんねー!!でしょ。
意味わかんねー!!よな。

生きてりゃ、意味わかんねー!!ことがいっぱいある。
どんなにその意味を探しても見つからないこともある。
だけど、せめて自分の中での「落としどころ」を見つけないことには不安でしかたがないのも事実。だからもがいてあがいて苦しんでも「自分にとっての落としどころ」を探すしかない。

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おまけ。 怒髪天の「武蔵野流星号」という曲のさびの部分の歌詞を「おっぱい先生〜」に変えるとなんだか楽しい自分になります。

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少し早いですが年内更新はこれにて終了します。ありがとうございました。

どうぞ、よいお年をお迎えください。